SNSには2種類の人がいると思う。
『キャラになりきるもの』と、
『第三者として見守るもの』である。
……などと偉そうに言ってみたものの、
「じゃあ、お前はどっちなんだ」
と聞かれると、途端に困る。
記事を書いている時や、コメントしているときは、
私は魚だ!!!!!!!
教祖だ!!!!!!!
と、完全にしらすというキャラに憑依している。
人間だった頃の記憶などない。
多分海か、スーパーの鮮魚コーナーからやってきた小魚である。
とにかく、文章を書いている間は、
「しらすというキャラクターを動かしている」
という感覚があまりない。
私がしらすで、
しらすが私なのである。
…なんか哲学みたいな言い方になった。
しかし。
サムネ画像を作り始めた瞬間、急に立場が変わる。
「今日のしらす、かわいいな……」
「この服も最高に似合ってる」
「おお、ちょっとセクシーじゃん」
などと言いながら、ぐへへと画像を眺めている。
完全に保護者。
いや、もはや推しを育てる変態である。
服を着せ替え、
ポーズを考え、
あらゆる細かな設定を追加し、
「やっぱ紙は外さないほうがいいな」
などと、世界観について真剣に悩む。
紙一枚に何をそんなに。
と思われるかもしれないが、
こちらとしては大問題なのである。
紙がなければ、しらすじゃなくなるからな。
考えてみると、不思議だ。
しらすは私であって、私じゃない。
自分から生まれたのに、ときどき自分とは別の人物のように思うことがある。
でも、この距離感が案外ちょうどいいんです。
現実で、ただの一般ピーポーアラサー女が、
「パンツ!パンツ!ギャハハww」
などと叫ぶのは、決して容易ではない。
いや、容易であってはいけない。
場所によってはドン引きされるし、相手によっては静かに距離を置かれる。
下手をすれば社会的地位を失う。
しかし、
しらすは恥もプライドも捨てた紙ペラ女である。
パンツと叫ぼうが、
教祖を名乗ろうが自由だ。
何もかもフリーダム。
普段の私なら
「これはさすがに言わないほうがいい」
と飲み込むことも、しらすなら平気な顔で外に出せる。
つまり『しらす』は、
私の中にある変な部分を解放させてくれる、器みたいな存在なのかもしれない。
逆に、自分がちょっと落ち込んでいるときは、しらす側から離れて『私』に戻る。
そして、自分を少し遠くから眺めて、
「こんなことで悩んでんのか。
かわいいなぁ、こいつは」
と思えたりする。
自分のことなのに、ちょっと他人事。
でも完全な他人事ではない。
この微妙な距離のおかげで、救われていることもある気がする。
…などと、ちょっといい話っぽくしてみた。
実際は、今日も、
「このサムネ、色々盛りすぎでは…」
「いや、しらすならいける…いけないとダメなんだ(何が)」
などと変態的妄想で真剣にサムネを作っている。
自分であり、
自分でない。
娘であり、
推しでもある。
相変わらず関係性はよくわからない。
まあでも、
今日もしらすがかわいいので、全部よし。




しらすさんの記事に「共感」という感想が出るとは!!
ただ、めちゃくちゃわかります!
私自身めちゃくちゃキャラクタ作ってたりします笑
SNSに自分を投影するのはなかなか勇気がいるものですからね〰️
こういうことを書かれると、外のしらすさん向けのコメントが思いつかないー
また、しらすモードの時にふざけに来ますね!
しらすさん
顔出しオッケーになったんですか?☺️
顔ファン狙いか…♥️